境山の文机

ヘルマン・アーベントロート(1883~1956年)について調べています。 http://sakaiyama.jp/

夜中に見るのは危険なブログ。

不覚にも、結構最近にその存在を知ったのですが、更新されるのを
すんごい楽しみ にさせて頂いているブログがある。

(こないだ MyblogList に登録させて頂きました。)



http://plaza.rakuten.co.jp/bombom26/
あやこの日記
(札幌交響楽団のヴィオラ奏者・辻彩子さん。)



初めてあやこさんの日記にたどりついた時には、今まで知らなかったことをスゴク後悔。



ハート 面白過ぎ。 ハート






ワタシもあやこさんと同じ関西出身なのですが、もうアチコチめっちゃツボにはまって



「うわはははは!!!」  笑い




と、うっかり真夜中に 大声で 笑ってしもて

そん時

上の階の人がビックリしてガタッ、と飛び起きたっぽい音が 聞こえた様な気がする ・・・。
(ウチは鉄骨の賃貸なので、夜中だと物音が聞こえてしまうのかもしれへん・・・・・す、すまぬ、上の住人殿。 落ち込み )
だだだ、だって、いつもスゴク面白いのだ。 キラキラ



[続きを読む >>]

をクリックする時、

“きょ、今日はどんなネタが・・・”

とほんまドキドキします。


楽天広場の日記って、 ブログなんですね。知らんかったです???。
トラックバックて、今もまだワタシ余り慣れてないんですが、お、思いきって・・・えい!

 ロケット 

ゲルハルト・タシュナー

Volker Burkhart さんが作ってた Gerhard Taschner Gesellschaft @AOLのサイトを昨日久々に見たら、

http://members.aol.com/VoBurkhart/taschges.htm


Sorry, We Can't Find That Page



・・・・・!!タシュナー様のあのカッコイイお写真が出ない!(泣)


でも慌てて検索したら、ちゃんとすぐにこちらのサイトが見つかりました。
(写真じゃなくて似顔絵やけど。)
良かった・・・・。
いつの間に出来てたんでしょうか。 www.taschner.org で。


Gerhard Taschner Gesellschaft

http://www.taschner.org/


お引越ししてたのなら
一応お知らせページとか出してておくれよ。
それとも、ワタシが知るのが遅すぎたのか・・。


ワタシついこないだ、

ゲルハルト・タシュナーのディスコグラフィー(取りあえず日本語表記のみ)

を作ってみてたんですが、

Gerhard Taschner Gesellschaft のサイト見ると
ディスコグラフィーもきちんと載ってました。



知らなかった。
うう、ウレシイ。


それにしても、EMI Classics から以前出てたらしい
タシュナー様の



プフィッツナー : ヴァイオリン協奏曲
メンデルスゾーン : ヴァイオリン協奏曲



て、残念ながらワタクシまだ聴けてないのです。
いつかまたCD化されないだろうか。


あれ?


・・・・


って・・・・あ!
EMI Classics 7243 5 66524 2 ていうCDの情報に

>Violin concertos by Fortner, Pfitzner, Hindemith, Bruch (G minor) and Mendelssohn Bartholdy; Carmen Fantasy by Pablo de Sarasate. Recorded between 1952 and 1955.


てあるよ。うわうわ。

タシュナー様、

ひ、ヒンデミットのヴァイオリン協奏曲も録音あるんすか!


えええええ?!知らんかった・・・。
ほ、ホンマですか!?




き、聴きてぇ!!

ライプツィヒへ行ってからも。

・・・・・あー、今日も

まだ

ネットへの接続は大丈夫だったー(ほっ)。

ウチのぱしょこんちゃん(OS・WinMe)いつ初期化・再設定しようかと、思いながらもずるずる数ヶ月も経ってしもうてます。(だって、今よりアカンようになってしもたらコワイし。)


CD-RWを焼けない、っちゅーのも不便なんですが、
実はワタシのPC、こないだから音楽が聴けない(映像は見られる)状態で
ミュートはずしただけで機械音がピーピー鳴り響くのです。


+++


では、

また教授ネタを。


コンサート記録をいくつか並べると、1934年1月にケルンでの公職を追放されて、同年秋以降のライプツィヒでも、アーベントロートの反ナチの行動が色々と。



1934年10月18日にライプツィヒ・ゲヴァントハウスでのカペルマイスターとしては初のコンサートを指揮。
曲目はバッハのブランデンブルク協奏曲第3番、ベートーヴェン交響曲第1番、ブラームス交響曲第4番。

ここでは3B(バッハ・ベートーヴェン・ブラームス)を指揮。しかし、


1934年11月29日の演奏会では ユダヤ系の作曲家であるメンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲を指揮。



1936年11月10日ライプツィヒのメンデルスゾーン像、地方当局により撤去される。

→しかし、その後の時期のコンサートで

1937年02月25日の演奏会にて、ベルリオーズ:Fausts Verdammung ファウストの劫罰 を指揮。


http://www18.ocn.ne.jp/~dirigent/concert.html




アーベントロートの妻がアーリア系ではなかったために、彼女を守るため
1937年05月01日付で入党、という情報が正確なものなのであれば、これ以後は、
やはりもう表立っては反ナチ的なことは出来なくなったのでは、と思われます。

(この「アーリア系ではなかった」というのは、「ゲルマン人ではなかった」と
いうのと同意だと は思うのですが、妻のルーツがドイツ系ではなく東欧や
北欧だったのか、等については不明。)

+++



トコロデ、資料として前に買った本、


「第三帝国の音楽」
エリック・リーヴィー ( Erik Levi )著、
望田幸男 , 中岡俊介, 田野大輔、訳 (名古屋大学出版会)


1994年に出た本で、日本語訳は2000年12月25日初版。

少しだけ、アーベントロートに関して書かれていますが、リーヴィーの推測と思われる記述を読んで、ワタシもうめっちゃガックリきたのだった。残念や。
(リーヴィーの音楽の好みによりアーベントロートの評価が低かったためああいう記述になったのかもしれませんが。)


Tahra で色々アーベントロートのCDが出るようになる以前に書かれた本ですし、仕方が無いのかもしれませんね。
それに書籍は、サイトやブログと違って上書き修正が出来ないですし。

1934年1月ケルンで公職を追放された。

アーベントロートは、

・ブルーノ・ワルターがナチスによりカペルマイスターの職を追われたその後を受けて、1934年-1945年ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスターをつとめた。
(ちなみに、前任者ワルターがカペルマイスターの職を追われた後の1933-1934年シーズンでの残り5回のコンサートでは、カール・シューリヒトがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮したそうです。)


・1943・1944年(1943.07.16の録音がPreiser Recordsから出ています)には バイロイト音楽祭 にてニュルンベルクのマイスタージンガーを指揮。




これを元に 推測で

「アーベントロートは親ナチだったのかも」

という記述をしたものを読んだことが、過去に何度かあります。
CDのライナーノートでもそういう記述を読んだことがあって、それである時期ワタシも
「そ、そうだったのか」
と思ってましたが、


それは、間違い。




ナチの勢力がケルンへ及ぶ3週間前、1934年1月10日にアーベントロートが指揮した演奏会では

フランスの作曲家デュカ(デュカス)の「魔法使いの弟子」、
フランスの作曲家ラヴェルの「ツィガーヌ」、
フランスの作曲家ベルリオーズ「ローマの謝肉祭」、
ユダヤ系の作曲家であるメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲が
ハイフェッツのヴァイオリンで


演奏されていたのだそうです。

そしてこのコンサートの後、


1934年1月(*これが月末付けで、なのか10日の演奏会の後間もなく、なのかは未確認)
ケルン市長 Riesen は、アーベントロートがナチに全然賛同していないということ、
彼がソヴィエトに対してもケルンのユダヤ社会に対しても好意的な立場を取っていることを非難して、


アーベントロートを、


ケルン市の音楽監督、
ケルンコンサート協会の芸術監督兼指揮者、
ケルン音楽大学の学長、
この3つの職から解任、

アーベントロートは公職を追放された

とのことです。

1933年1月30日にヒトラーが首相就任し、ナチス政権成立後しばらく、ナチの勢力って完全にはケルンへ及んでは無かったんですね・・・。


アーベントロートがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスターになったのは、
1934年秋

1934年10月18日にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団でカペルマイスターとして初めてのコンサートを指揮。曲目はバッハのブランデンブルク協奏曲第3番、ベートーヴェン交響曲第1番、ブラームス交響曲第4番。


+++

アーベントロートは1937年まではナチと直接対決をしないで済むよう何とか切り抜けてきていたが、ライプツィヒ市長はアーベントロートにカペルマイスターというポストの維持を交換条件に、 NSDAP(国家社会主義ドイツ労働者党、つまりナチスドイツ)へ入党するよう彼に圧力を加えた。
しかしアーベントロートは決してナチスの党の会合には出席することはなく、第三帝国の世界観に対し敵対するという姿勢を変えなかったそうです。


アーベントロートの妻 Liesel Walter がアーリア系ではなかったために、彼女を守るため1937年05月01日付で入党、という資料もあり、ケルンを去ってから党には入ったが、党の会合には決して出席しなかった、という資料も有る。


入党するよう強い圧力を加えられた際に
「じゃあ、そっちで手続きやっておいて」
と表面では言っておいて、しかしその後全く党費を払うことはなく、そのうち払うから払うから、と言ってはごまかし続け、結局は入党自体が無効、自然消滅となってうまく逃げてしまった、ということだった、と以前人づてに伺ったこともあります。
(えーっ、そーゆーの、可能なんでしょか。「指揮台の神々」で戦中のクナッパーツブッシュの逸話を読んでると、むむ、可能だったのかも・・・・・とは思ったんですが。)


アーベントロート自身は手続きをしなかったが、党の方で入党手続きを代行してた→でも党費は払わなかった→書類上、一応籍はある状態

ということになるんでしょうか。
戦後アーベントロートが知人に出した手紙でも、党の会合に出席はしなかった、と書いていた様です。


ゲヴァントハウスとの戦争後初のコンサートは1945年07月08日。
以後のコンサートでは、ナチ時代には演奏出来なかったメンデルスゾーン、マーラー、ヒンデミットの作品などが演奏されたそうです。

* 1945年07月08日10:30?の演奏会
ベートーヴェン : エグモント序曲
チャイコフスキー : 交響曲第5番

* 1945年07月26日18:00?の演奏会では
ベートーヴェン : レオノーレ序曲 第1番 op.138
メンデルスゾーン : ヴァイオリン協奏曲 op.64 (Vn : Kurt Stiebler)
マーラー : 交響曲第1番


こーゆー情報を一番載せてくれてるのが
Tahra のCDについてる解説書


何せ、ウォルター・フリッシュ( Walter Frisch )が(←「ブラームス4つの交響曲」を書いた人)


Performing Brahms の注釈で


>現在、アーベントロートのバイオグラフィーは出版されていない。
>彼の一生とキャリアについて最も細かく記している解説は、Tahra の
>ルネ・トレミヌ氏によるTAH102のCDセットに付いているブックレットだ。


て書いている位で・・・。
(ワタシから言わせて頂くと、TAH102に限らずTahra のブックレットは全部宝の山。)


アーベントロートに関する本や資料が少ないなかで、以前から Tahra の解説書は一般リスナーのワタシにとって、

アーベントロートについての最も詳しい第一級の資料

というものなんですが専門家の方にとっても、同じ様です。

+++

・・・・・ぜいぜい(息切れ)。

自分のサイトに載せているのもつぎはぎしてたら、大分長くなってしもうたー。
ここまで読んで下さった方、感謝!
そして、どっか間違ってるとこ見つけられたら是非コメント下さい。

ヴァルター・ブラウンフェルス(1882-1954)

ヴァルター・ブラウンフェルス Walter Braunfels
1882年12月19日フランクフルト生,1954年3月19日ケルン没
ウィーンでレシェティツキーにピアノを学び,その後はミュンヘンでトゥイレとモットルに師事。
1925年,ケルン音楽大学設立・指導のためケルンに招かれたが、1933年にケルン音楽大学学長の職務辞任を強いられゴーデスベルクへ。後にはボーデン湖畔に住む。
第2次世界大戦後音楽界へ復帰、ケルン音楽大学の再編に取り組んだ。



ここまでは以前音楽事典などでも調べました。
んで、その後探して

・1925年アーベントロートとブラウンフェルスはケルン音楽大学を設立。(1933年まで共同運営。)



コレに関して、ワタシが知る限り一番詳しく情報載ってたのは

Decca 448679-2 ヴァルター・ブラウンフェルス 歌劇 Die Vogel 「鳥たち」の解説書
(英語・仏語・独語・あとのは伊語?西語?日本語は無し)


そして、


アデナウアー
アーベントロート
ブラウンフェルス
ケルン音楽大学



・・・ワタシは随分長い間、探していたんです。この4つに関しズバリ言及している文章を。
今年5月にこのCD買って解説書読んだ際には小躍りしちゃいました。
この中から(英語 p.17-18・独語 p.30-31)一部参照した拙訳を載せます。どきどき。

(注: 所々私が関連事項を補足していますので、忠実な訳文ではありません)

+++


1923年、ヴァルター・ブラウンフェルスはプロイセン芸術アカデミー(1871-1955)の正会員に選ばれた。
翌年、ケルンでブラウンフェルス作曲のテ・デウムがセンセーショナルな成功を収めたその後、ケルン市長コンラート・アデナウアーが彼を訪ねて、ヘルマン・アーベントロートと協力し新たにケルン音楽大学を設立するよう依頼。


(注:ケルン音楽院はアーベントロートが1925年まで院長を務めて、1925年に国立音楽大学と改称された。この時の学長が誰だったかは現在未確認ですが、1931年当時にケルン音楽大学学長だったのがヴァルター・ブラウンフェルスであることはギュンター・ヴァント関連の資料から確認出来ています。)


Eduard Erdmann(エドゥアルド・エルドマン)、Bram Eldering(ブラム・エルデリング)、 Paul Grummer(ポール・グリュンマー)、Philipp Jarnach(フィリップ・ヤルナッハ)のような優秀な教授陣と協力し、 Staatlichen Hochschule fur Musik ケルン国立音楽大学は国際的な評価を得た。しかしブラウンフェルスのこの仕事は、1933年政治的な出来事により阻まれた。

1945年、ブラウンフェルスはコンラート・アデナウアーの要請を受け再びケルンへ戻った。ブラウンフェルスの尽力により音楽大学は再建され、彼自身もコンサート・ピアニストとしてのキャリアを再開。 1948年彼の作品がケルン歌劇場で上演された。ブラウンフェルスの70歳の誕生日にはギュンター・ヴァントが Westdeutschen Rundfunk (WDR) でブラウンフェルス作曲のテ・デウム op.32を指揮。


+++

ドリコムブログはウムラウトがうまくいかない。

ワタシはこれ知ってから


>ブラウンフェルスの70歳の誕生日にはギュンター・ヴァントが Westdeutschen Rundfunk (WDR) でブラウンフェルス作曲のテ・デウム op.32を指揮。

ブラウンフェルス作曲のテ・デウム聴いてみたいな、と思いました。


(アデナウアー情報・補足:
1917年コンラート・アデナウアーがケルン市長となる。
1933年1月30日ヒトラー首相就任。ナチス政権成立後、ケルン市長コンラート・アデナウアー公職追放される。
1945年アデナウアーがケルン市長に復帰、キリスト教民主同盟を創設。)
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